実は僕、冬のシーズンになると気持ちが落ち込むんですよね。
他人と自分を比較することでコンプレックスが渦巻くようになり、なんだかネガティブに〜なんていうふうに、つい心身がグズグズになっていまうようです。
冬になると魚が釣れないということもあり、メンタル不調の傾向にいっそう拍車がかかっているのかもしれません。
そこで、とあるキーワードでネットサーチを入れてみたのですが、自分の書いた記事がヒットするという…。
内容をあらためて読み直してみると感心した…というお話をします。
もくじ
【他人の釣果にコンプレックスを感じたときに読む用】悩みを検索すると自分の書いた記事がヒットする件
昨今のバス釣りについていけなくなってきたのかもしれない
実は最近、釣りをするのがやや辛いんですよね。
上達しなきゃ、だとか、他の人と自分の釣果をくらべてしまいネガティブになってしまうのです。
ライブスコープなどというハイテク魚探を駆使するアングラーを見かけたり、幼いころに親から英才教育をうけてきたアングラーがいたり、高級車に乗って毎週のようにボートフィッシングを楽しんでいる人がいたり。
そういう人たちと自分を比べ、『まるで歯が立たない…オレって本当にクソ下手だな』なんていうふうにダウナーな気持ちが湧いてくる。
寒くて釣りに行く気力がない…ほかの人たちは頑張って釣りに出かけているのに…こんな自分はまるでダメだなとか。
釣りをする意味なんてないんじゃないか、とか。
そもそも、プロにも上級者にもなれないなら釣りをする意味なんてなくない?、とか。
ついネガティブになってしまいますね\(^o^;)/
ハイテク魚探、ライブスコープ、ひたすらフィネス…についていけないオッサン
と同時に、「ライブスコープを使ってまで魚を追い込んでフィネス!」な世情にたいして嫌気が差しはじめました。
魚探を駆使してちいさなワームで釣りをするのなら、もう沖釣りと変わらないんじゃないか。
もうバス釣りじゃなくても構わないのでは…と思うわけです。
エキスパートたちに対する嫉妬でしょうか。もちろん嫉妬も含まれています。
もしかしたら、昨今のバス釣りについていけない思想になってしまったのかもしれません。
そういえば、ここ最近、村田基氏の著書を読んでいたのですが、胸がアツくなるものがあった。
「オレにとっての”バス釣り”って、こうだよね」と感じさせる内容ばかりが書いてある。やっぱり自分の釣りにたいするベースは、ミラクルジムなのかなぁ〜なんてふうに思ったり。
【関連記事】
ハイテク魚探の台頭、フィネス至上主義の昨今のバス釣りシーンについて、あなたはどう思われますか?ほかのアングラーさんは実際どう思っているのでしょうか。
僕もセコ釣りをやることもありますが、さすがにライブスコープとかハイテク魚探はやりすぎなのでは…というのが本音です。
…という疑問を解決すべく、「ライブスコープ やりすぎ」というワードで検索してみたところ、自分の書いた記事がヒットしました。
以下の記事です↓
自分の書いた記事にえらく感心してしまうという…。
ブログライティングは自分の人生の”軌跡”
僕は”絶対に魚を釣らなきゃならない”トーナメンターやプロではありません。
だったら、自分なりに楽しみながらまったり取り組んでもいいんじゃないのか。
とはいえ、上達したいものはしたい。コンプレックスは放っておくと肥大化してしまうので、自分のペースでコツコツと経験を積みあげればオッケー♪くらいのモチベーションを大切にしい。
過去に書いた記事(過去に解決した悩みごと)をおさらいし直すことで、そう思い直すことができたのです。
自分の書いた記事というのは大切ですね。
そのときに悩んでいたことをフィードバックできますし、いま抱えている問題をどう解決すればいいのかがわかります。
書き手は自分自身。自分の人生にとって再現性のある取り組み方ができる、というワケです。
たしか、上記の記事を書いたときも「高級魚探を積んだエキスパートには勝てない…いつまで経っても上達しない…鬱…」なんてふうに思っていたと記憶しています。
ほかのアングラーと自分のヘナチョコな釣果を比較してしまい、コンプレックスが沸々と湧きあがっていたんだと思います。
が、過去に自分の書いた記事を見直すことで、自分のやるべきことや、興味のあること、パッションを感じられることをベースに釣りをしようと再検討し、メンタルが上向きに。
ネット上に自分の考えをアップするのは勇気がいります。
叩かれるリスクと向き合わなければならないから。
ネットに上げるのは抵抗があるというなら、日記帳でもかまわないかと思います。
その日その時、思っている本音や気持ちをなにかに書き記しておくことで、あらたな問題にぶつかったときに見直すことができるのがいいですね。
昨今、ブログ需要は落ち込んでいます。
しかし、それはあくまで収益や数字においての話。
ラジオが今もなお愛されているのと同じように、ブログも今後”ニッチ”産業として生き残るでしょう。
ごく個人的に、自分自身のためにひっそりとブログライティングを行うなら、それは自分にとって意味のあることなのではないでしょうか。
最近、なんだかつまらないな〜と思っているなら、ブログを立ち上げてみるのもいいかもしれません。
バス釣りは「自己評価」が大切
バス釣りは「自己評価」が大切だ、と僕は考えます。
自分が釣った魚を正当に評価できるのは自分のみです。
釣った魚を他人の物差しで評価するのではなく、あくまで自分自身のみが正当に評価できます。それが「趣味としてのバス釣り」の本質であると僕は思います。
釣りでメシを食っている人やトーナメンターでないのなら、いかに自分にとって”価値を感じられる魚”と出会えるかが問題だ、ともいえるでしょう。
釣り方、魚体サイズ、匹数、プロセスは問いません。
1匹の魚にたいして、自分なりの”価値”や”感動”という付加価値をつけられるのであれば、結果はどんなものであっても構わない。たとえ魚が釣れなくても構わない。そこに自分なりの意図や思想があるのなら。僕はこう考えます。
誰かに認められたいという気持ちはかならずしも”悪”ではありません。
しかし、そこだけに偏ってしまうと自己評価が下がる一方です。
承認欲求のみを追いかけるというスタンスは、自分を見失うことにもつながるので注意したいところです。
バランスって大切よね。
”自己評価”をあげられる取り組みをしたい
誰かより劣っていてもいいじゃない。
たとえ日本一位になったとしても、世界から見たら一位ではありません。
どこかでは誰かに勝っているし、どこかでは負けている、というわけです。
最優秀賞を目指さなくてもいいし、ナンバーワンになろうとしなくてもいいじゃない。
そして、オンリーワンにもなろうとしなくていい。
このご時世、オリジナリティのある”オンリーワン”になることは非常に難しく、セルフブランディングをしたところで他人様にとっては「ふ〜ん、そう」なんていうふうに流されてしまいます。
たとえ高級車に乗っていようが、デカい魚を釣っていようが、観覧者にとってそんなものはどうでもよかったりします。
みんな、あくまで自分自身が幸せになりたいからコンテンツを見るわけであり、自分に関係のあることにしか興味を持たないからです。
だとしたら、自分はなにをすればいいのか。
他人からの承認ばかりを追い求めるのではなく、”自己評価”をあげられる取り組みをしたい。
●自身の内側から湧いてくる”パッション”をベースに行動すること
●「やらなきゃいけない(must)」ではなく、『やりたい(want to)』に従うこと
●義務ではなく、本能に従うこと
●自分が掲げた目標を達成し続ける
●憧れの誰かに「成ろうとする」のではなく、本当の自分自身で「在る」こと
自分のペースで、じっくりコツコツと経験値を積みあげていき、余命を告げられたときに後悔しないような生き方をしていればオッケー。
最終的に、僕たちアングラーは死にます。
死ぬ直前に「有名にはなれなかったし誰かにすげぇ認められたわけでもない。でも、俺の人生、そこそこ楽しかったかもなぁ」と少しだけ満足しながら死ねたら十分なのではないでしょうか。
そして、周りにいる人の笑顔を奪い去らずにいなければ、それは十分幸せな人生だったといえるのではないでしょうか。
自分は天才でもないし、なにか特別な才能があるわけでもない。
だったら、自分がこの世を去るときまで、人生の自己評価をあげ続けるしかありません。
人生にたいしても、1匹の魚にたいしても、相対評価ではなく、ごく個人的な絶対評価も大切にする。
バス釣りはほかの人の評価も大切ではありますが、自己評価も忘れてはなりません。
あなたにとって、価値のある魚とはどんなものなのでしょうか。
あなたの心を震わせてくれる魚は、どんなタックルを使い、どんなスタイルで釣った個体なのでしょうか。
あなたは今、なにがしたいですか?
本当は、すでに気づいているはずです。