先日、「なんとか状況に対応して1匹を…!!」などと必死になって釣りをしていた自分に気付きました。
まるで、魚を釣らなければ親でも殺されるんじゃないか的な焦りと、坊主に対する恐怖心というか不安感というか、ともかく必死にバス釣りに取り組んでいる自分がいたのです。
そんなとき、フと思ったことがあります。
「あれ?なんかオレ、必死すぎない?あまりにも必死すぎない?」
別に必ずしも釣れなくてもよくない?
真面目に取り組むのは大事なことですが、バスフィッシングの楽しみ方って「死ぬ気で1本を追い求める」だけじゃなくない?と思った気持ちのエントリー。
もくじ
釣り場であまりにも必死に”1匹”を追い求めている自分がいた
「どんなアプローチだと有効なのか…」
「バイトがない…これでダメならマジでどうするかな…」
上記のような感じで”ガチ”に取り組んでいた自分。
ちょっと必死すぎたかもしれません。息つく暇もないカンジでした。
もちろん、「自分なりの1本」を追い求めるっていう姿勢は素晴らしいものだと思います。
僕自身、上達したいという想いがあるからマジでやっていましたが、取り組み方が本来の自分に合っていないからなのか、精神的なキツさを感じています。
ブログのためにやってたかもしれないし、誰かに評価されたくてやってたのかもしれない。
自分のためにやってたのかというと、実はそうではなかったのかもしれません。
誰かに認められたいだけ。自分を喜ばすためにやっていない。”自分が”楽しむためにやっていなかった。
バスフィッシングの楽しみ方は「死ぬ気で!なんとか1匹を手にする!」だけが楽しみ方ではないんだな、と痛感しました。
釣れなくても死なないから、好きなルアー投げんしゃい
僕はバスプロ・メディアプロではないので、魚が釣れなくても生活には支障がありません。
にも関わらず、「1匹でも釣らなければアナタは人間失格デス」みたいな焦りを感じていたんですよね。
結果に囚われすぎている自分に気づく。さすがに必死すぎたか、真面目に取り組みすぎたか。
魚が釣れなくても死ぬわけじゃないのにね。
フィッシング系メディアに洗脳されすぎているのでしょうか。
「魚が釣れなきゃダメ」
「ボウズは悪、あってはならない現象」
「状況に対応してこそエキスパート」
「常に最高の成果をあげろ。前進しろ」
…みたいな先入観がヤバいくらい強くなっていることに気付きました。
ブログで「〇〇の使い方!」みたいな解説記事を書いているからなのか、余計に『偉そうにあんなこと書いておいて…』みたいな感じで精神的にキツキツになっているのかもしれませんね。身の程を弁えよ。すみません。
とりあえず疲れているのなら、好きなルアー投げとけばOK
とりあえず息抜きでトップウォーターとか投げるんですけど、これがめっちゃ面白いわけさ。
水深が1mくらいの野池でやってたので、もちろん「アリかも」っていう下心はあるんですけど、なんか別に釣れなくてもいいかな…と開き直って好きなルアーだけ投げていると、これがめちゃくちゃ面白いワケさ。
いわゆる「トッパー」と呼ばれる人たちの取り組み方だと思うんですが、ゆる〜い取り組み方をしたっていいじゃん、釣果を叩き出すのはトッププロにお任せしとけばええやん、みたいな意識で釣りをしたほうが『息抜きの釣り』になる。釣れないけど。
向上心は大事。
しかし一歩間違えると、「釣果の沼」に囚われた奴隷と化してしまうのかもしれないな、と学びました。
「たった一人のトーナメント戦」から戦線離脱しよう
薄々、感じてたことがあります。
「なんかオレ、一人でトーナメントやってない?たった一人でトーナメントやってない?」
取り組み方が”ガチ”のトーナメンターレベルというか、やたらマジすぎた。
もちろんトーナメンターみたいな技術はないのですが、意識というか、取り組む姿勢だけは一丁前だった。
そんなに本気にならなくても、魚1匹釣れなくても死にはしないよって感じなんですけどね、なんか精神的に切迫した感があります。
なぜだろう。「お前、釣らないとヤバいぞ」みたいなメンタリティに洗脳されているような…?
まとめ:たった一人のトーナメント戦からは戦線離脱したほうが身のためである
もしかしたら僕はたった一人だけで見知らぬ誰かとトーナメントを繰り広げていたのかもしれません。
やらなくていい戦いからは戦線離脱したほうが良いですね。
売られた喧嘩は買うな、やらんでもいい競争に巻き込まれるな、です。
なんというか、「とりあえず好きなルアー投げとけ」ってヤツでしょうか。
まずは好きな釣りをトコトンやれ、話はそこからだ…的な。
とりあえず、次の釣行では好きなルアーだけ投げて楽しもう。今の時期はそれでいいと思う。
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