とあるバスプロは「Aが正しい」という。
また、とあるバスプロは「Bが正解」だという。
前者を信用する人は、みな口を揃えて「Aこそが正義であり正解」だという。
後者を信じる人は、みな口を揃えて「B以外は本質ではない」などという。
一体、なにが正解なのか。
正解などない。だから宗教・宗派間の争いや論争がおこる。
バス釣り業界には、宗教みたいなものが存在する。
そして、自分自身と教祖サマの意見とのギャップに思い悩み、苦しんでいる人も存在する。少なくとも僕はそうだった。
最終的には「無宗教」を目指したほうがいいのかもしれないな、というお話。
もくじ
バス釣りはある意味「宗教・宗派」みたいなもんかもしれない
宗派・信仰にかかわらず、とりあえず楽しめればいいじゃん
釣りはあくまで趣味なのだから、自分が気持ちよく取り組める”宗派”で楽しめばいいと思う。
田辺哲男氏に憧れるならノリーズ製品を使えばいいし、村田基氏を好いているならワールドシャウラやスコーピオンを使って楽しめばいい。
レイドジャパンが好きなら金森隆志氏を参考にすればいいし、とくにバスプロとか好きじゃないなら個人的な楽しみをすればいい。
Don’t think. Feel.…である。
某ネットサイトでは、それぞれの価値観の違いが原因で論争や論破争いが繰り広げられている。残念でならない。
自分の宗派以外はすべで間違っていると決め込むのは違うんじゃないか。
それは「押し付け」であり、偏った考えかたが原因となっている”エゴの暴走”ともいえる。
「バス釣りの本質」とはなにか
ときには、「バス釣りの本質から外れているアングラーはクソ野郎だ」なんていう意見を目にすることもある。
なにを隠そう、以前の僕もそのように考えていたこともあった。が、経験(と歳)を重ねるごとに、なんか違うんじゃないかと思うようになっていった。
はたして、バス釣りに「本質」などあるのだろうか。
時代、価値観、釣りをする環境によって個々人のベストが変わるのなら、そもそも”本質”など有って無いようなものなのではないか。
「ハードルアーこそが正義」「ワーム・セコ釣りは邪道」のプロパガンダを信じきっていたころの話
僕がバス釣り初心者のころは、某プロに入信し、バスの本質は〇〇!などと盲信していたことがあった。
たとえば、「バス釣りの本質はハードルアーを使ってバスを探し、ストライクを引き出すことに有り」だとか。
または、「ちいさいワームを使ったセコ釣りは邪道。ルアーフィッシングの本質から掛け離れた行為である」など。
具体的にどのプロが言っているのかは割愛させていただくが、バスをやりこんでいる人なら上記の一般論を目にしたことがあるだろう。
しかし、これらはあくまで”教祖”の考えかたであり、ビギナー支援のための救済テクであり、遊び方の提案のひとつであり、そしてプロパガンダにすぎない。
以前の僕は、ただ単に”ソレ”をトレースしていただけだった。だから苦しかったし、魚も釣れなかった。
●教祖サマのマインドをトレースして自己洗脳していた
僕自身、レンタルボートにすら乗ったことのないガチのビギナーだったころは、上記のように”本質(のようなもの)”を追いもとめ、その価値観に沿って自己洗脳するかのように考えがちだった。
教祖サマの教えをトレース・模倣するしか上達する方法がなかったから。
ほんの少しばかり魚が釣れるようになると、「本質を知っている俺スゲェ、”わかっている人”だわ…ほかのヤツらはわかってねぇな」なんていうふうに、自分に酔いしれていたこともあった。
初心者ほど、すがる物がほしくなる。ゴールもわからない、なにが正解かもわからない。だから、指針となるものがほしくなる。
知識で武装し、脳内マウントをとってなんとか自尊心を保っているものの、疲労困憊の日々が続く。
不安なときほど、心の行き先や戻る場所をもとめたくなるのが人間の性ともいえる。
僕の場合、某バスプロへの入信が心の拠り所になっていたというワケだ。
●「教祖サマの意見、なんか違くね?」と気付けたら卒業
さまざまな人に接し、いろんなフィールドで釣りをしてみると、上記した価値観は「とある宗派のたったひとつの意見」でしかないということに気がついた。
そしてまた、自分の本音と教祖サマの意見にギャップがある、ということにも気がついた。
教祖サマのマインドに沿って行動していても結果が出ないし、なんだかメンタル的にも苦しい…。
しかし、自分なりに「こっちのほうが良くね?」なんつって試行錯誤していると結果が出たりする。しかも楽しいし、楽。
どこかの誰かが言っていることを、自分の意見だと勘違いして自己洗脳しすぎないほうがいいのだと学んだ。
有名人のマインドをトレースしすぎていると、その考えがまるで自分の意志や意見だと勘違いしていしまいやすく、メンタルを消耗するので注意したい。
「ワームを使うのはバス釣りの本質ではない」なんて、一体誰が言い出したのだろうか。
「ちいさいワームを使うのはバス釣りではない」なんて、誰が言い出したのだろうか。
僕はよくわからない。好きなの使えばいいじゃないか。
洗脳が解けたあと…脳内「意識高い系」から脱出したあとの現実
盲信していた特定のプロなりメディアから距離をとって、自分なりに釣りを楽しんでいると、さまざまな発見があった。
たとえば、〇〇プロは「デカいルアーを使え!」と言っていたが、実は釣具ショップのお兄さんや現地ガイドのアドバイスを参考にしたほうが釣れる…というか”普通の釣り”をしたほうがいいじゃん…とか。
さらに、自分なりに工夫して「実はこっちのほうが良くね?」なんてふうに取り組んでいると、より楽しく、より釣れるようになったりする。
有名人のマインドをトレースしすぎると、本当の自分とのギャップに気付きにくくなるのだ。
知識と能書きで武装しても、本当の自分の釣りの技術が低いのなら、その知識は使い物にならない。
有名プロやユーチューバーの派手なパフォーマンスには騙されないように注意したいものだ。
自分よりすげぇ上手い人たちがゴロゴロいるという現実と向き合う
僕は普段、関東のレンタルボートレイクで釣りをしている。
そこで気づいたのは、自分なんて「ただの知ったか野郎」だったという事実だ。
僕は過去の記事をリライト(書き直して最新バージョンにアップデート)することもあるのだが、読み直してみると結構痛々しいことが書いてある。おそらく、ここ最近書いたものを数年後に読み返すと、同じような感覚になるはず。
ならないのだとしたら、自分が成長していない、ということだろう。
最近は、自分自身の技術やウデが実は大したものではなかった、と痛感する日々が続いている。
自分の脳みそだけが「意識高い系」になっていたという現実を突きつけられた。
ちいさな野池で50アップ釣ってイキっていると、マジで勘違いしやすい。
地方の野池で釣りまくってイキっているユーチューバーよりも、メジャーレイクのロコや現地ガイド、そして自分自身の経験をベースに考えたほうが100倍参考になる。
意識だけが高くてもサカナを釣ることはできない。知識があるだけでもサカナを釣ることはできない。
魚はアングラーの事情やタックルの価格、バス釣りの本質うんぬんなど知ったこっちゃない。食いたいと思えるものが目の前に来たから食うだけだ。
アングラー自身の意識や知識、宗教、使っているタックルの価格なんてものはサカナには関係ない。
結局、「宗教にかかわらず、とりあえず楽しけりゃいいやん」に帰結するのだが…。
最終的には「無宗教」が理想的かもしれない
いろんな経験を積むと、最終的に辿り着くのは「無宗教」なのかもしれない。
バス釣り初心者さんが本気で上達したいなら、とりあえず直近の目標は「無宗教」なのかもしれない。
実際のフィールドに立ったとき、憧れの〇〇プロの真似をしても釣れないことも多く、トレースだけだと伸び悩みがちだ。
もちろん、釣りをはじめたばかりの初心者さんは、最初はトレースしたほうがいいと思うし、トレースでもいくらか釣れるはず。
しかし、やっぱり頼りになるのは自分自身の勘だったり”読み”だったり、こうしたい!という内的欲求だったりする。
プロを参考にしているのが楽しいのなら、どんどん参考にして楽しんだほうがいい。
しかし、それだけだといずれ壁にぶち当たるだろう。「なんか違くない?」という段階がいつかやってくる。僕はその壁にぶち当たった。
トレースだけだと「バス釣りつまんねーな、飽きたわ」となりやすい。最近バス釣りつまんねーなっていう人は、もしかしたらココにつまずいているのかもしれない。どこかのタイミングで、自分なりの楽しみ方を模索したい。
その”楽しみ方”がプロのトレースだというのなら、僕はそれでもいいと思う。みんなが上を目指しているわけでもないし、ただ楽しみたいからやっている人もいる。
ただ、プロを参考にするのが精神的に苦しくなってきたというのなら、自分のどこかに嘘があると思ったほうがいいだろう。
プロの真似をしていて身体が重くなるのなら、そして楽しくなくなったのなら、取り組み方を変えるしかない。逆もしかり、だ。
両方楽しむのが最強かもしれないね。なにごともバランスが大事でござる。
まとめ:楽しけりゃなんでもいいが、盲信しすぎには注意したい
バス釣り業界には、実に多くのメーカーやプロが存在する。
最近はユーチューバーなる存在も出現したため、ビギナーにとっては負の迷宮に陥りやすい環境になったともいえる。
初心者のころは誰かをアテにするしかないため、憧れのプロやユーチューバーの言っていることを信じることしかできない。
多くの初心者さんが、いろんなメーカーやバスプロの宗派をまるでジプシーのように渡り歩き、自分の考え方や価値観を変えていく。
最終的になにが正解かわからなくなってしまい、自分はなにをすればいいのかわからなくなり、なにをしたいのかすらわからなくなる。
そして、最終的にはバス釣りをやめてしまう。こんな人は少なくないだろう。僕自身がそうであったように。
経験を積んでいくにつれ、結局のところバス釣りには「宗教・宗派」みたいなものが存在していて、以前の僕は”教祖サマ”の思考の癖をトレースしていただけだったのかもしれないな、と気がついた。
また、上達するにしたがって、”トレース”から卒業するタイミングが訪れ、『無宗教』になっていくのかもしれないとも学んだ。
無宗教になった瞬間だけ、一瞬だけバス釣りがものすごくつまらなくなる。
なんだ、バス釣りってそういうカラクリがあったのか…ツマンネェ…結局カネかよ、釣り業界の闇…なんてふうに。
しかし、その壁を乗り越えたさきに、自分にとってのあたらしいバス釣りの世界が広がっているんじゃないかと信じたい。
バス釣りの闇、他人との比較、競争、いいね争い、マウント取りなんて放っておいて、とりあえず先に進もう。
ごく個人的な自分の興味や「楽しい!面白い!」はどこにあるのか追求しよう。