【メンタル管理】バス釣り完全に飽きたと思ったら勘違いだった件。「結果を出せない、長続きしない自分」を否定したくなったときに読む記事

ここだけの話、「…バス釣り完全に飽きたわ…」なんて思っていた。

あーあ、あれだけ入れ込んでたのに、情熱が冷める時は一気にくるな、と。そういう自分にウンザリし、メンタル的にも落ち込んでいた。

しかし、どうやら勘違いだったようだ。

ただ単に、興味関心がモンハンライズサンブレイクに移っていただけだった…という話。

記事後半では「”結果を出せない、長続きもしない自分”を否定したくなったときは」についてのお話。

バス釣り完全に飽きたと思ったら勘違いだった件

弟がこんなことを言っていた。

以前まではaという趣味に没頭していた

でも、bにハマったらaのことは完全に興味がなくなった

以前まで大好きでハマっていた関心ごと。

ほかに心が移ると冷めてしまうという。

よくある話なのかなぁと思っていたが、自分にもその気があるということを自覚した。

今の時代はひとつだけの趣味に集中する人は少ない。

みな、複数の趣味やアソビを掛け持ちしている。

aにハマっていたけど、bのほうに夢中になり、aを忘れる。
しかし、bに飽きたらaに戻る。

上記のような人は少なくないのでは。

人の心はジプシーのように移り気なのかもしれない

令和のいま、人々の興味関心はさまざまなジャンルに移り変わりやすい。

娯楽ジャンルが多様化する昨今。

以前のように、ひとつのことを長く続けて成長していく-

…なんていう考え方は古いのかもしれない。

たとえば僕の場合、バス釣りやゲーム、ギターにイラスト、ライティング、バイク、熱帯魚など、さまざまな趣味を掛け持ちしている。

たとえば最近だと、モンハンライズサンブレイクという狩りゲームにハマっていた。
それと同時に、あれほど熱中していたバス釣りに興味がなくなった。

しかし、サンブレイクを一通りやり終えると、なんとなくまたバス釣りという故郷に戻りたくなったのだ。

以前なら、ギターに夢中だったときは数年間はギターだけだったし、バス釣りに熱中しているときも他のことに興味がわかなかった。

がしかし、最近はあっちもコッチもというように、いろんな趣味を掛け持ちしながら楽しむというライフスタイルに変わっていた。いつの間にか。

僕と同じような人がいるのか、最近は少しずつだがブログのアクセス数も回復してきた。

ここだけの話、当ブログのアクセス数は僕自身のバス釣りにたいするモチベーションと同調していたりする。

たとえば、僕のバス釣りモチベーションが下がっているときは、アクセス数も減る。

しかし、なんとなく僕のバス釣りモチベが高まっているときは、ブログのアクセス数も上がる。

不思議なものだ。

僕と同じようなことを考え、同じような趣味や悩みを抱える人が多いのかもしれない。

ネット越しに読者さんの顔は見えないけれど、このブログを通してほかの人たちと”何かしらの感覚”を共感できているのかもしれないと思うと、このブログも捨てたもんじゃないなと思う。

 

「結果を出せない、長続きしない自分」を否定したくなったときに読みたいこと

「結果を出せる人」と「普通の自分」を比較しなくていい

「ひとつのことを長く続ける」

とても大切なことだ。

しかし、令和のいま、はたしてこの価値観は本当にただしものなのか。

とくに、一般的な社会人の「趣味」においては、かならずしも継続と結果がすべてではないように思う。

ひとつのことを長く続けることよりも、楽しみながらたくさんの体験をしたいと考える人は少なくないのでは。

前述した僕の弟の発言にたいし、僕はこう答えた。
「飽きたらほかの趣味に移るのが普通なんじゃないの。”普通の人”はいろんな趣味をちょいちょいかじって渡り歩くもんじゃないの」と。

そう、一般的にはたとえハマっても、せいぜい中級者クラス止まり。これが普通なのだと思う。

大抵の人は、ひとつの物事に頭イカれたんちゃうかと思えるほどの執着はしない。できない。
頭のどこかで「これに金と時間と労力をつぎ込んでもムダだろう。仕事がんばるべ」と考える。
だが、ひとつの物事に異様なほどの執着心を持てる人は、そのジャンルでトップクラスに行く。

僕は以前、高校生のころにエレキギターを毎日12時間くらい弾いていた。
そのまま専門学校に進んだが、エレキの腕前はそこそこ上位の方だったと思う。
(しかし、作曲能力がなかったため、ミュージシャンになることはできなかった)

たぶん、僕もアナタも”普通の人”なのだと思う。
才能に恵まれた”特別な人”でない自分を否定しなくてもいい。あなたは間違っていない。あなたが普通だ。

すぐに飽きちゃう。
せいぜい中級者止まり。
何事も長続きしない。

これが普通の人にとっての”普通”なのだ。

「長続きさせて向上し、かならず結果を出せ」というストイックな向上心は、今の時代にそぐわない考え方なのだろうか

僕より年齢を重ねている人たちは、「長続きさせなければNG!飽きない工夫をしないと長続きしないし、トップには成れないぞ!」などという。

はたして、”その価値観”をそのまま受け入れていいのかと疑問に思うようになった。

長続きさせることを目的にするのが正解なのだろうか。それは仕事の話だろう。
息抜きというアソビを義務化してしまっていいのか。

ひとつだけ確かなことは、僕たち(そこそこ)若年層は、上の人たちの価値観に洗脳・マインドコントロールされている気配がある、ということだ。

エキスパートやプロたちが異常(異端)なだけなのではないか。

ひとつのことを数十年もやり続ける人のほうが少数派なのではないかと。

”普通のヒト”がマイノリティなヒトを基準にすると、おかしなことになる。

プロやエキスパートになるような段違いレベルの人は少数だ。

普通である自分という人間と、少数派の人間を比べるのは、そもそも間違っているのかもしれない。

そういえば以前、お笑いコンビ・ココリコの遠藤氏が以下のようなことをいっていた。

「僕は高校で野球をやっていました。その後プロになる人とチームを組んでいたのですが、やはり”プロになる人”というのは普通の人とは違うなと痛感したことがあります。
あぁ、プロになる人っていうのはこういうヤツなんやな…と」

「結果を出せない、長続きもしない自分」を否定したくなったときは

上を見たらキリがないし凹む。

見上げすぎると、いまいちパッとしない自分に自己嫌悪し続けてしまう。

しかし、自分は普通の人間であり、間違っているわけではないのだと認識すると、「まぁ自分もそこそこ頑張っているからOKだよな」というふうに、できない自分を許せるようになりたいものだ。

上を見ると、私はあの人みたいに成れないと自己嫌悪する。

物事を長く続けられない自分に辟易することもある。

ときには「下を見る」ということを忘れてはいけない。

『下を見る』などというと少々いやらしいと思ってしまうかもしれないが、現実では自分よりすぐれている人だけでなく、自分よりも不慣れで劣っている人がいると認知するだけで、自分にたいする評価が変わる。
これをメンタルケア界隈では「認知療法」と呼ぶ。

そもそも僕たち一般人は、プロやハイアマチュアの居る「最上階」を目指さなければならないわけではない、ということも忘れないようにしたい。

人の生き方は多種多様。

いろんな趣味を渡り歩き、個人的に楽しめればそれでいいのだ。

ひとつのことを長く続けられない自分を否定しなくていい。

ほとんどの人は”それ”が普通なのだから。

数十年も続けられる人たちが特別なだけである。

少数派の人たちを基準に自分を評価すると、メンタルを病む。気をつけたい。

もちろん、いつかプロやハイアマチュアになりたいなら話は別だ。
ほかの人と差をつけるような圧倒的な結果を出すには、楽しんでいるだけではいけない。

ただ、個人的に楽しみたいだけの人にとって、たいていの場合「趣味」とは息抜きを目的にするものだ。

過剰な競争や向上心は、ときとして自分の心とヤル気を傷つけることもあると知っておきたい。

結果を出すことだけがすべてなのか。
僕はそう思わない。
結果のみならず、プロセスも大切にすべきだ。

そういえば僕が高校生のころ、「結果を出せ」という先生と、プロセスも大切にすべきだという僕で意見が割れ、大喧嘩をしたことがある。卒業式の前日である。
友達に止められたからよかったものの、もし友達がいなかったら卒業できなかっただろう。

大人になると結果ばかりを追いかける。結果でしか人を判断しないからだ。当然ではあるのだが…。

だからこそ、少なくとも趣味やアソビの時間のなかでくらいはプロセスを大切にすべきだ。僕はそう思う。

まとめ:巡り巡って、いろんなことを楽しめればそれでいい

今やっているアソビを一生続けなければならないなんて、一体誰が言ったのか。

飽きたらやめてもいいんだぜ、と自分を許すことも大切だと思う。かならずしも「他人より秀でている自分」でなくてもいいのだ。

気を楽にし、自分を許そう。

そうすることで傷ついたメンタルが回復し、ふたたび「好きなこと」に戻ってくるんじゃないか。

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