「釣りができない人生」というのは、家族や恋人を失ったときの感覚と似ているのかもしれない。釣りは人間のエゴ?

あなたは「釣りができない人生」を想像したことがあるだろうか

僕はない。

なので、想像してみよう。

「釣りができない人生」というのは、大切な人やモノを失ったときに生じる喪失感と似ているかもしれない。

釣り人にとって「釣りができない人生」とは、どんなものになるのだろうか。

釣りという娯楽は「本来やらなくても生きていけるもの」である。

なので、なくても死なない。出来なくても生命維持に問題は起きない。

でも…

無くても死なないけど、困る。

無くても生きていけるけど、困る。

釣りができない人生は、「家族や恋人を失ったとき」の状況に似ているのかもしれない。

今までは在って当然、そこに居て当然だと思っていた存在が、自分の前から姿を消す。

しばらくすると喪失感が生まれ、自分が灰色の世界に包まれているかのような感覚に陥る。

僕にとっての「釣りができない人生」とは、大切な人やモノを失ったときの感覚に似ているかもしれない。

自分の心にスッポリと”穴”を開けてしまうような感覚。

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釣りは「やらなくても問題ないもの」である

今の時代は、魚を釣らなくても食事に困ることはない。

漁師たちは生活のために魚を獲らなければならないが、僕のような一般人は魚を獲らなくても生けていける。

ちょっとした魚ならスーパーに行けば簡単に手に入ってしまう。

僕のような一般人にとって”釣り”という娯楽は、「本来ならやらなくても良いこと」にカテゴライズされている。

釣りは「やらなくても良いもの」である。

しかし僕たち釣り人は、その「やらなくても良いこと・無くても生命維持には困らないもの」に夢中になって取り組んでいる。

なぜか。

釣りというアソビには、人を夢中にさせる要素がたくさん詰まっているからである。

言い方を悪くすると、単なる”エゴ”だ。

もし釣りができなくなったら、僕たち釣り人の人生は退屈なものになってしまうだろう

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前述したが、「釣り」というアソビは、必ずしも無くてはならないものではない。

最古の時代は食べるため魚を釣ったと言われているけれど、今は違う。

スーパーに行けば「食べるための魚」は簡単に手に入る。

しかし、「自分を満たすための魚、喜びを得るための魚」はスーパーには置いていない。

自分の魂を震わせてくれる最高の1匹は、自分の力で手に入れるしかないのだ。

釣りがない人生は想像できないが、無いなら無いで、きっと僕は内的情動を得られる他の趣味を模索するのだろうと思う。

しかし、釣りという娯楽がこの世に存在している限りは、きっと僕は釣りを続けるのだろうと思う。

『釣り』は、必ずしも無くてはならないものではない。

けれども僕たち釣り人にとっては、”無くてもならないもの”だ。

釣り人にとっての”釣り”とは、人生を彩るための存在

釣りができない人生とは、白黒写真のようなものなのではないか。

白黒写真は物事の姿自体は映し出すけれど、いつも見慣れた”色”が存在しないぶん、なんだか味気ないと感じることもある。

しかし、ソコにいくつかの”色”がつくだけで、同じモノであるにも関わらず見方も感じ方もずいぶん変わる。

僕にとって「釣り」とは、あると人生に彩りを与えてくれる存在…とも言える。

僕たち釣り人は、当然のように「写真はフルカラー」だと思い込んでいるが、もしモノクロ写真の時代に戻ったら不満を感じてしまうに違いない。

釣りもフルカラー写真も、必ずしも無くてはならない存在ではないけれど、あると人生に”彩り”を与えてくれる存在だ。

もし釣りができなくなったら、僕たち釣り人の人生は「何かが足りない」と欲求不満を感じざるを得なくなるだろう。

釣り人にとって「釣りができない人生」とは、カラー写真から”色”を抜いてしまったようなものである。

釣りができなくなっても、直ちに死ぬわけではない。

しかし、もし釣りができなくなったら、僕たち釣り人の人生は退屈なものになってしまうだろう。

僕たち人間は「やらなくても良いことを」なぜ敢えてやるのだろうか。

自分の生命維持には関係のない「釣り」というアソビは、本来ならやらなくてもいいことでもある。

しかし、なぜ膨大な時間と労力とお金をかけて、僕たち釣り人は”釣り”をするのだろうか。

目標や成長、達成感、喜び…こういった内的情動を得たいがために、僕たちは釣りを行っているのではないか…と考えた。

「それは釣り人のエゴにすぎない」という意見もあるかと思うが、もちろんエゴだ。

食べない魚を釣っているのだから、エゴ以外に説明のしようがない。

「生命を弄んでいる」と言われると、僕は反論できない。

その通りだからである。

「キャッチ&リリース」ほどエゴまみれのものはない。

かつては「キャッチ&リリースは魚に優しい」などと言われ、それを”カッコイイ行為”と見る人もいた。

が、結局のところは、釣り人側のエゴを満たしたいだけなのではないか…と思うこともある。

釣り業界的な視点で見れば、キャッチ&リリースを推奨するのはごく当然のこと。

リリースすれば魚は減りにくくなるし、財的な資源として再利用することができるからだ。

フィッシングビジネスを行っている人の多くは、魚という生命をビジネスに利用したり、勝敗を決めるための”道具”として生命を扱っている。

これが人間のエゴでないのだとしたら、一体なにがエゴであって何がエゴでないのか、僕にはわからない。

ただ、「釣り」という娯楽の存在が多くの人間の生活の糧となり、誰かを幸せにしている…ということも、また1つの事実である。

「魚釣り」という娯楽が、多くの人の生活を支えているということも理解しておきたい

釣りという娯楽が、実に多くの人の生活を支えている

例えば、トーナメンター、バスプロ、バスプロの家族、メーカー関係者、出版社、レンタルボート店の店主、釣具屋の店員、店員の家族…などなど、数え上げたらキリがない。

魚という生命が、多くの人の生活を、人生を、支えている。

「釣りは釣り人のエゴ!今すぐ辞めるべき!この世から排除すべき存在!釣り人はゴミばかり捨てる!辞めさせろ!」

こんな意見を頻繁に見かける。

釣り人の悪行が原因となって釣り禁止になった場所も、たくさんある。

「釣り」という娯楽は、誰かにとっては”悪”かもしれないけれど、絶対悪であるとも言い切れない。

魚という存在に支えられている人が居て、魚が自分を(あるいはその家族を、関係者を)幸福にすることができるのなら、「釣り」という趣味は”絶対悪”とは言い切れない。

僕は「釣り」という娯楽が、必ずしも他者を破滅の道に誘うものではないと思っている。

「キャッチ&リリースは拷問」という問いに、僕は何も言い返すことができない

キャッチ&リリースは人間側からすればメリットが多いが、いざ魚側からしてみれば、実際はトラウマを植え付けているだけの行為でもある。

心苦しい事実ではあるが、僕たち釣り人は命を利用して遊ばせてもらっている身だ。

罪のない魚を騙して釣り上げ、またリリースし、また釣り上げて、またリリース…というループは、魚にとっては拷問でしかないハズ。

よく「スレている」とか言われるが、あれは僕たち自身が自らの手で魚にトラウマを与えているのが理由である。

「釣りは人間のエゴ」と言われると、僕は「その通りです」としか言えない。

だからといって、「エゴだから辞めろ。やるべきではない。動物虐待だから今すぐ辞めろ」と言われても、ハイ辞めます…とは従えない。

その理由はすでに前述した通りである。

僕という人間は、実に身勝手で欲望にまみれた動物なのだな、と呆れたりすることもある。

「食べない魚を釣るのは人間のエゴである」と理解しておきたい

ある意味では、「食べるために釣っている」という釣りの方が健全なのではないか、と考えたこともある。

なにが健全で不健全かを判断する目安は人によって違うけれど、魚に与えるストレスが長引くか(リリース)、一瞬か(死)…の違いがわかりやすい目安かもしれない。

こう考えてみると、なんで僕はルアーフィッシングなどやっているのかわからなくなってくるし、気分もダークになってくるけど、「生命を利用して遊ぶ」ということだけは、釣り人としてしっかりと理解しておかねばなるまい。

そもそも、バスが日本に持ち込まれたの理由が「食用」だったし、人間のエゴによって持ち込まれて拡散された…という事実は変わらない。

「エゴ、欲望」という要因が釣りというアソビの根本にあるということは、釣り人としてしっかり理解しておかなければならないんじゃなかろうか。

魚と釣り場を「あって当然のもの」だと思わないように注意したい

だからこそ、魚は丁重に扱いたいし、釣りをさせてくれるフィールドには感謝しなければならない。

釣り場にゴミを捨てるなど愚の骨頂である。

釣り人が生み出したエゴ的娯楽内で起こる出来事は、釣り人の手によって完結させるべきだ。

魚という生命を「あって当然のもの」だと思わず、その存在に感謝しなければならない。

魚と釣り場がなければ、僕たち釣り人は「釣り人」としてこの世に存在できないのだから。

まとめ:釣りができない人生は、彩がなく退屈な世界。エゴに振り回されずに魚と環境に感謝して取り組みたい

釣りができない人生は僕にとって、非常に退屈な人生だと思う。

娯楽は他にもたくさんあるけれど、釣り人にはやっぱり「釣り」しかないのだ。

釣りという趣味は生命を弄ぶ行為には違いない。

だからこそ、命から学べることはたくさんある。

魚と釣り場は「あって当然のもの」だという前提にせず、その存在に感謝したい。

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