【メンタル管理】「自信」とは。自信は競争の結果ではなく、自身の成長のなかにある / 「失敗」のすすめ

「自信がない」

「自分に自信をつけるためには、どうしたらいいのだろう…」

「結果が出なさすぎて自信を失ってしまう…」

上記のことで頭を抱える人は少なくないだろう。

「自信」とはなんだろうか。
自信という言葉の定義はひとそれぞれだと思うが、僕は「誰かに勝つ、誰かよりもすぐれている、結果を出す」ということのみが自信に直結するワケではないと考える。

『誰かを言い負かして会話の主導権を握ることができる。オレ、スゲェ』

いわゆる「マウントとり」。これは自信ではなく、傲慢であり慢心だ。誰かを不幸にすることのなかに自分の自信は存在しない。

間違っていることを正そうと修正するのは美しい行為かもしれないが、価値観は人それぞれだということを忘れてはならない。

自信とは、自分自身の成長体験の積み重ねのなかにあり、常に過去の自分との比較のなかに存在する。

結果への執着を手放し、自分がその体験でなにを学び、なにを感じ、なにが変わり、どう成長したのかを知ることが自信へとつながる。

【メンタル管理】「自信」とは、誰かに勝つからうまれるわけではない

「自信」は、『自分がおこしたアクションからなにを学んだか(試行錯誤)・成長過程』のなかにあり、その繰り返しをおこなうことでついていく。僕はそう考える。

しかし、一般的に「自信」とは、以下のようなことからうまれるものだといわれる。

●誰かに打ち勝つから自信がつく

●定めた目標を達成するから自信がつく

●なにかで結果を出したから自信がつく

●誰かよりも優秀になる(優越感を得る)から自信がつく

上記はおもに外的な要因で、あくまで他人の存在や結果の是非をベースとした解釈だ。

もちろん、上記のようなことを繰り返せば、いくらかは自信を持つことができる。
ただ、取り組みかたによっては、その自信はいともカンタンに崩れ去ってしまうので注意したい。

引きこもりの陰キャがプロ俳優になって自信をつけた。が、しかし…

たとえば、僕は学生時代、自殺を考えるほどの引きこもりの陰キャだったのだが、ミュージシャン・俳優に転身したという経験がある

派手なパフォーマンスや口論を身につけ、オンナも作り、肉体的な優越感を得て、「ほかの人とは違う世界にいる人間」というステータスを得た。

お恥ずかしいかぎりだが、一般的なサラリーマンを見下していた時期もあったし、ほかの人とは違う特別な自分を演出することで優越感を得ようとしていたこともあった。

しかし、これらの体験で得たものというと、そのほとんどは上っ面だけの自信にすぎないといえるだろう。
結果ありき、他人の評価ありきの見せかけだけの自信ばかりを得ようとしていたからだ。

そのこともあり、誰もが憧れる一流の劇場でスポットライトを浴びようが、千人の観客から拍手喝采を浴びようが、自信はつかないままだった。
ひとたびステージを降りてしまえば、自信のないコンプレックスまみれの自分に戻ってしまうのだ。

ステージを去ってしまえば、みんなと同じ”ヒト”になる。
僕は誰もが知っている一流の俳優や声優、売れっ子のお笑い芸人を間近で見てきたが、みんな結局のところは”人間”なのである。
まぁまぁ薄汚いし、コンプレックスまみれの嫌〜な感じのヒトも多かったし、ここでは言えないような”ヤバい”ことをしている人もいた。裏表が激しいヒトが多くて困ったものだ。

閑話休題。
さて、僕の「自信」はというと、実績に反比例するかのように、生命エネルギーが枯れていった。これを心理学で「アンダーマイニング効果」という。

そういう自分を押し殺すかのように、楽器やら芝居や仕事をこなし、自信があるフリをするようになった。

学生時代にイヤな思いをしたということもあり、「いつかアイツらを見返してやる…!」という憎しみや怒りをベースに奮闘していたものの、負の感情が自分の心身を蝕んでいたとは気付かず、体調不良をおこして休職したこともある。

上っ面の自信というものは、その舞台から降りてしまえば、たんなるガラクタにすぎない。

一流の社長が退職したあと、老後の生活に生きがいや”自信”をなくし、いやらしい性格になり家族から嫌われる…なんていうことは少なくない。
ちなみに、これは僕の祖父の話だ。
カネはあっても人格的に尊敬できるようなヒトではなかったため、葬式では誰一人として涙を流さなかった。カネや権威が幸せを産むかというと、そうでもないということを学んだ体験談である。

外的な評価や成功体験のみをベースとした”自信”は、本当の意味での自信とはいえない。

表面的な自信は、真の意味での「自信」とはいえない。
カネや権威を得ようが、いい家やクルマを持とうが、誰かにマウントを取れようが、それはかならずしも自分(あるいは他人)にとってプラス作用となる”自信”になるわけではないのだ。

もちろん、ないよりはあったほうがいい。
しかし、少なくとも、自分の”自信(とかいうもの)”が誰かを不幸にしているのなら、そんなものは今すぐ捨て去るべきだろう。

自分の弱い部分から逃げているだけではいつまで経っても成長しない。
他人の弱い部分にマウントをとっていても、結局のところ、それはブーメランとなって自分に戻ってくる。ほら、今こうして僕自身へとブーメランになって返ってきている。そういうものだ。

結果ありき・他人ありきの自己評価に依存することをやめること。

結果にかかわらず、そのプロセスを認め、できなかったところやダメな部分だけでなく、出来た点や前回よりもうまくいったところを正当に認めてあげたい。

『自分がおこしたアクションからなにを学んだか(試行錯誤)・成長過程』の積み重ねと、解釈の方向性がポジティブかどうかが、自信をつけるキモになる。

「失敗」のすすめ

どんどん失敗しよう。結果にこだわらず、「学んだこと」に集中しよう。
1歩、また1歩と進んでいったさきに、望んだ未来が目の前にあるということに気づくはずだ。

積極的に「失敗」し、学んだことを大切に

成功をしようと奮闘し、失敗を避けるように選択していては、結果的に成功から離れてしまう。

失敗を避けようとし続ければし続けるほど得られる学びは少なく、成長するスピードも遅い。

「成功」や「失敗」という結果は、自分のおこしたアクションの行程に存在する副次的な要素であり、目標にすべきものではなし、避けようとするべきものでもない。

成功とか失敗とか目標達成とかは、人生のなかで自然とうまれる”おまけ”みたいなものだと思ったほうがメンタルを病まずに済む。

どんどん失敗したほうがいい。成功・失敗などの結果にかかわらず、学びを得るためのチャレンジすることも大切だと思う。

ゲーム、釣り、アウトドアホビー、仕事…
さまざまなジャンルで、決意を迫られることがある。

適切な選択をしなければ失敗してしまう!失敗したら終わりだ…!なんていう危機に瀕する場面を経験する人もいるだろう。

結果がどうであれ、自分が試行錯誤してチャレンジしたのなら、その経験は無駄にはならない。無駄な経験などなにひとつない。

僕は芸術活動や仕事のなかでたくさんの経験をし、「上っ面だけの自信など簡単に崩れ去るから追いかけるべきではない」と学んだ。

失敗したからなんだというのか。
人より劣っているからなんだというのか。
人に負けているからなんだというのか。

「自信」は、『自分がおこしたアクションからなにを学んだか(試行錯誤)・成長過程』を繰りかえすことでついていく。

結果がどうであれ、あなたはあなたのままでいい。ありのままの自分を認めたうえで、これまでに何を学んだのか確認すること。
そして、今後どうするかをゆっくり考えていけばいいだけだ。

もちろん、ローリスクに失敗を避けようと、できるだけ成功率の高い手段をえらぶことも大切だ。

ただ、「失敗する・しない」という結果のみに執着しすぎると、自分がその体験からなにを学んだのかがボヤけてしまいやすいので注意したい。

「失敗」という言葉にはネガティブな響きがふくまれている。
失敗への解釈を変えることで、失敗とどう向き合えばいいのか見えてくるはず。

まとめ:「自信」とは、『自分がおこしたアクションからなにを学んだか(試行錯誤)・成長過程』のなかにある

「失敗」という結果のみで自分の評価をするのではなく、失敗からなにを学び、次にどう生かすかが大事だと僕は思う。

また、できなかったことやダメな部分、できない理由ばかりに着目するだけでなく、『できたこと、前回より上手くできたこと、1年前より上手くなったかどうか』に注目したい。
これを繰り返すことで自信はついていく。少なくとも、1年前よりは成長しているはずだ。

「自信」とは、かならずしも勝利や優越、成功のなかだけに存在しているマインドではない。

自信とは、自分の体験したことをどう解釈するかの方向性であり、PDCA(試行錯誤)の積み重ねからうまれる自身の成長のなかにも存在している、と僕は思う。

僕は自信があるほうではない。むしろ自己肯定感は低いほうだ。
しかし、間違いなく言えるのは、あの暗黒の学生時代のころよりは多少ものを考えられるようになったということである。

おい、中学生のころのオレ、見ているか。安心しろ、今の苦しみはかならず役に立つからな。どんどん失敗していけ。その涙はムダにはならないぜ。

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