「持っていない、劣っている、負けている、欲しい、弱点克服」ばかりを追いかけていると、「すでに持っている、長所、魅力、目の前にある大切なモノ・ヒト」に気づけなくなります。
小さい頃、イジメを受けて死のうと思ったり、見返そうとミュージシャンや舞台俳優になったり、病気になってまた死のうと思ったり、いろいろあったのですが、「本当に大切なものは、すでに持っていた」というお話をします。
無いもの・持っていないものばかり追い続けると、目の前にある「幸せ」に気付けなくなる。
もくじ
- 1 「持って無いもの」ではなく「すでに有る・持っている」に気付かないと、すべて見失う
- 2 「持って無いもの(コンプレックス)」より「持っている(長所・あなたの魅力)」を大切に
- 3 「幸せに”成る”」ではなく、「幸せだと”気付く”」こと
- 4 物事を「どう解釈するか(どう”在るか”)」で人生の質が変わる
- 5 ”幸せ”に気付くための方法は、「いつか消える」と知ること
- 6 家族もカネも社会的地位も、いつか消える。万物はいつか消えてなくなるモノ
- 7 「居なくなってから、大切だったと気付く」では遅すぎる
- 8 来世はない。今、目の前にいるヒト・モノを”どう感じるか”が大切
- 9 まとめ:【幸せとは”成る”のではなく”気付くこと”】「持って無いもの」ではなく「すでに有る・持っている」に気付かないと、すべて見失う
「持って無いもの」ではなく「すでに有る・持っている」に気付かないと、すべて見失う
「持って無いもの(コンプレックス)」より「持っている(長所・あなたの魅力)」を大切に
「持っていないもの、出来ないこと、弱点を克服する」といったマインドセットは、人によっては心身をブっ壊す原因ともなりやすいです。
「努力して、”出来ないこと、弱点”を克服する」というアクションは、一見すると美しいことのように感じられますが、人と世代によっては必ずしもソレが”幸せ”につながるというワケではありません。
グロービス経営大学院「テクノベートMBA」特別講座講師である尾原和啓氏の著書「モチベーション革命」では、上の世代と若い世代の考えかたとモチベーションの違いについて以下のように語られています。
上の世代は、頑張って何かを達成することが生きがいです。必死の思いで働いて、ウン年モノのワインで美女と乾杯し、誰よりもいいクルマに乗る。努力の末に栄光を勝ち取り、賞賛を浴びる。「達成」こそが、彼らにとって生きるうえで欠かせないモチベーションになっているのです。
●
一方、「乾けない世代」は、何かを「達成」することにそれほど心を動かされません。
なぜなら、「何もなかった時代」を知らないからです。
生まれたときにはテレビも冷蔵庫もあって、ベッドから起き上がらなくたって、リモコンやケータイひとつでなんでもできました。
●
生まれたときから十分なモノに囲まれて育った彼らは、「ないものを勝ち得るために我慢する」という上の世代の心理は理解できないのです。
されに言えば、彼らは上の世代に対し、「達成」にこだわることのアンバランスさを感じてもいます。
「確かに、何か大きなことを『達成』して飲む極上のワインは美味しいかもしれない。でも、『達成』する前に飲んでもよくない……?てか、友達とサイゼリヤのワイン(マグナム)で気楽に乾杯するほうが楽しいんだけど」というのが本音です。
「成功、達成、ハイスペックの配偶者、いいクルマ、勝ち組に成る」などの外的な要素は、若い世代のモチベーションにはなりにくいと尾原氏は語っています。
尾原氏がいう「乾けない世代」とは、『自己実現や充実感、やりがい、楽しさ、喜び』を中心に生きたい世代のことで、だいたいアンダー40歳くらいの若い世代に当てはまるマインドセット。
僕を含め、アンダー40歳の世代にとっては、必ずしも「出来ないこと、持っていないモノを得るために努力する」という観念がマッチするわけではないんですよね。
僕自身、いっときは『幸せなライフスタイル=カネ、結婚、家、クルマ』だと思い込んで死ぬほど働いていましたが、追い続けていると息苦しくてストレスを感じ、リアルに”死”を考えるまで追い込まれてしまったこともあります。
もちろん、成長し向上することは大事なこと。
しかし、あまりにも「持っていない、出来ない、劣っている、負けまい、成功しなきゃいけない」というコンプレックス打破系な意識を強くもちすぎてしまうと、”幸せで在る”ことを遠ざけてしまいやすいのです。
●持っていない
●他人より優れていたい(負けたくない)
こればかり求めていると、本当に大切なものが見えなくなる。
「自分の弱みやデメリット、できないことを克服」ばかりに注目するだけでなく、「自分に出来るわずかなこと、魅力、長所、すでに持っている(居る)こと」にも注目したい。
「幸せに”成る”」ではなく、「幸せだと”気付く”」こと
幸せは「追い求めるもの、”成る”もの」ではありません。
「幸せで”在る”、幸せだと”気付く」ことです。
幸せは「成る」のではなく、『すでに持っているモノや、すでに在る・居るモノに”気付き”、感謝すること』。
幸せは、勝利のうえにあるものでもなければ、自分にムチ打って得られる”結果ありきのモノ”ででもありません。
僕が幼いころから愛読していた「週刊少年ジャンプ」は、『努力・友情・勝利』という考えかたをテーマにしていましたが、大人になってみて思うのは、それらのマインドセットが僕自身を幸せにするものではなかった…ということ。
僕にとっての幸せとは「目の前にあるモノ・ヒト、持っているモノ・ヒトに気付くこと」に在ります。
サンテグジュペリの名著「星の王子さま」では、以下のフレーズが書かれていました。
「本当に大切なものはね、目には見えないんだよ」
まるで人間の人生の本質を突くかのようなフレーズ。
「幸せとは、物事をどう解釈するか」のベクトルのことだと僕は考えます。
物事を「どう解釈するか(どう”在るか”)」で人生の質が変わる
星の王子さまが言っている「本当に大切なものは、目には見えない」というフレーズは、『物事をどう解釈するか。小さな幸せに気付ける”心”を持っているか』を言いたいのでは、と僕は考えます。
たとえば、机のうえに1つのリンゴが置かれていたとする。
Aさんは「まぁ!素敵なリンゴね!大好き!甘くて美味しいよね、見た目もかわいいし♪」と解釈した。
対してBさんは「こんなところにリンゴ置きっ放しにしたヤツがいるのか!マナーが悪い!私リンゴ嫌いだし、糖質はダイエットの敵!食べたいけどガマンしなければならない!甘えは厳禁!努力しろ!」
事実としては「机のうえにリンゴが1個ある」だけなのですが、人によって解釈のベクトルが変わるのが興味深いところですね。
小さな幸せや、モノに対する感謝の心がある人、プラスの側面を感じとれる人が前者。
物事のデメリットや危険性、弱点や反発心、マイナスの側面を感じとる人が後者。
幸不幸でいうなら、前者が幸福、後者が不幸…とも言えます。
ネット・メディアは後者の心理をつかってコチラを煽ってくる。
事実は1つしかないにもかかわらず、認知が歪んでいるほど、あるいは固定観念や”自分ルール”に縛られているほど、目の前にあるモノを正常に認識できなくなってしまうのです。
”幸せ”に気付くための方法は、「いつか消える」と知ること
物事にたいする認知や解釈をおおきく変えるための方法が1つだけあります。
それは、「万物はいつか消滅する」という現実を受け止め、それと向き合い続けることです。
あなたが愛する家族やペット、友人や恋人、大切にしている家や道具、クルマ…すべていつか消滅します。永遠の別れが訪れます。この現実と向き合うこと。
こう考えていくことで、当たり前だったモノ・人が、「今しか感じられない超特別な存在、感謝すべきもの」に変わっていきます。
家族もカネも社会的地位も、いつか消える。万物はいつか消えてなくなるモノ
ごく当然のように存在する家族やペット、友人や知り合いとの関係、贅沢な暮らしは、人生においてすべて一時だけのもの。
残念ながら、僕たち人間を含めすべての生き物や物質には「寿命」というものが存在するため、一時的であり、期間限定的なモノ・ヒト…とも言えます。
今あるモノや、今周りにいる人が、永遠に存在しているなどと思うべからず。
今目の前にいる人は「いつか消える(亡くなる)」という自覚を持つこと。
周囲にいるどんな人であっても、いつかその関係性は消えてなくなるため、「すでにある、持っている、近くにいる人・モノ」はありがたいものなんですよね。
ありがたいとは、「有難い」とも書きます。
「ありがたい」の漢字表記は「有り難い」「有難い」
「ありがたい」の漢字表記は「有り難い」または「有難い」です。 ただし、ひらがな表記する方が一般的です。
「今日は(こんにちは)」「今晩は(こんわんは)」「御免なさい(ごめんなさい)」など挨拶等で使用する表現はひらがな表記が一般的です。
(引用:wulk)
「有り難い」とは、「めったにない、稀な」という意味合いも含まれており、まさに「消滅するのが前提とした一時的な関係性への感謝」に使いたいコトバ。
大切にしている”物質”は、いつかすべて目の前からいなくなる。
この現実から目を逸らさず、しっかりと向き合うこと。
そして、「この人やモノは、いつか自分から離れていく」と気付き、出会いに感謝し、それが”幸せ”であるということに気付くこと。
「居なくなってから、大切だったと気付く」では遅すぎる
「居なくなってから、大切さに気がついた」というのはよくある話ですが、物欲・出世欲・競争化社会に巻き込まれているうちは『皆、消える』ということに気付きにくい。
しかし、無くなって(亡くなって)から気付くのでは遅すぎるのです。
居なくなってから「あの頃は幸せだったんだな…」と気付くのでは遅いのです。
僕は小学3年生のころに父親を亡くし、祖父母も亡くしていますが、居なくなってから「大切な存在であった」ということに気付かされました。遅すぎました。
「死んでから、手元から消えた、無くなった、気づかなかった」では遅いのです。
僕たちは、「いつか消えてなくなる存在・関係」を前提として生きています。
手遅れにならないためにも、無駄なモノを手放し、「すでに持っている、周りに居るヒト・モノ」の存在に気づき、小さな幸せに気づきたい。
来世はない。今、目の前にいるヒト・モノを”どう感じるか”が大切
もし、前世というものが本当にあるのなら、「今世の記憶は来世に持っていくことができない」ということでもあります。
必死に築いた人間関係や社会的地位はすべて忘れ去ってしまい、”無”になる。
事実としては「生物が生まれ、死ぬ」というだけであり、それは命の大小かかわらず万物にあてはまります。
僕たちは前世の記憶がありません。ということは、たとえ現世でどれだけ功績を残したとしても、どれだけ人を愛したとしても、どちらかが死んでしまえば全て”無”になり、忘れ去られてしまいます。
今目の前にいる家族やペット、人間関係、物質的な幸せは、いつか消えてなくなる。
いま大切にしているモノや人、金や社会的地位は、いつかすべて失う。
あの世には持っていくことができないし、来世に持っていくこともできない。
あなたが愛している家族との楽しかった経験や記憶は、すべて消えてしまいます。
この現実と向き合い続け、小さい幸せに気付くこと。
「あって当たり前」として存在していたモノ・ヒトを、大切に扱うこと。
「もっていない、無い、勝ち負け」ばかりを追いかけず、いま自分のまわりに「有る、在る、持っているモノ・ヒト」を大切にしていきたい。
まとめ:【幸せとは”成る”のではなく”気付くこと”】「持って無いもの」ではなく「すでに有る・持っている」に気付かないと、すべて見失う
「持っていない、劣っている、負けている、欲しい、弱点克服」ばかりを追いかけていると、「すでに持っている、長所、魅力、目の前にある大切なモノ・ヒト」に気づけなくなる…という体験談を書いてみました。
「すでに在る、持っている、出来ること」を注目しながら、すべてのモノ・ヒトは『いつかこの世から消えて無くなる(自分自身も)』という現実と向きあうことで、今までは見過ごしていた”小さな幸せ”にも気付けるようになった、というお話でした。